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2012年01月25日

紋付きの芭蕉布

『日本の自然布』(平凡社)を見ていたら、下の画像に出くわしました。江戸時代に作られたと見られる芭蕉布です。

糸に関する注釈が付けられていますが、それより、この芭蕉布、紋が入っていますね。木瓜の様です。

芭蕉布を普段着とか野良着とか言う人がいますが、上質な物はこうやって官服として用いられた事がわかりますね。



『正装は絹』といつから決められてしまったのでしょうか。
いま、私達もその『きまり』を越えてお客様にお勧めすることは難しいです。

小袖展を見たときも、麻布に豪華な刺繍をした物を見ましたし、植物繊維系の織物も身分の高い女性に、そしてそれなりの場面で着られていたのです。

『絹だから高いのです』という呉服屋がいますが、現実には糸の値段なんて、絹でも綿でも最終価格に対しては大した影響はないのです。

綿や麻の方が毛羽だって織るのも扱うのも大変なくらいです。

結婚式にどうぞ、なんてとても言えませんが、いまより少し気の張る場所にも着ていけるんじゃないでしょうかね。

原始布を調べていると、日本には面白い素材がたくさんありますね。

色や柄、技法もいいですが、素材自体の味わいを楽しむのも、着物の楽しみの一つです。

とくに日本は蒸し暑い。

だから、植物繊維が発達したのでしょうし、豊かな国土の恵みを感じる事もできます。

植物染料だって、植物繊維の方が良く染まるんですよ。

動物性繊維の絹には、植物染料は染まりにくくて、染めるのに無理がかかるんです。

実際、発色も、堅牢度も植物繊維に染めた方が良いのです。

顔料の食い込みも良い。

もうすこし、暑い季節も長くなってきているのですから、着用する期間を長く取って植物繊維の着物を楽しまれたらどうでしょうか。
  
Posted by mozuya at 15:31Comments(2)TrackBack(0)

2012年01月24日

有機栽培の『たんかん』

毎年お願いしている『たんかん』が届きました。

琉球藍を製造していらっしゃる上山弘子さんのご主人が栽培されています。

もちろん、無農薬・有機栽培です。



それだけに、生産が不安定で、今年は裏なりの年。

せっかく出来た果物も、一夜のうちにコウモリにやられてしまったそうです。

贈答品として使わせてもらっているのですが、今年は無理で、私のところにだけ、送ってくださいました。

このたんかん、身もすごく美味しいのですが、皮も干してから泡盛に入れ、1年くらい寝かすととても良い『たんかん酒』が出来上がります。

美味しすぎて、飲み過ぎてしまうのですが・・・(^^;)
  
Posted by mozuya at 16:38Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月24日

朝ドラ『カーネーション』にみる『ものづくりの心』

いま、NHKの朝ドラで『カーネーション』というのをやっています。

コシノヒロコ、コシノジュンコのお母さんがモデルなんだそうです。

舞台は、大阪府岸和田市。

私が住む羽曳野市から見て、南西に位置するいわゆる『泉州』という地区になります。

中学時代から、岸和田を初めとする泉州地区の友達が多く、この朝ドラで使われている泉州弁を懐かしく聴いています。

このドラマのヒロインは呉服屋の娘として生まれ、自分で洋裁店を始めます。

実際にコシノ姉妹のお母さんは岸和田で長いこと洋裁店をされていました。

ヒロインを演じる女優さんも非常に活き活きとその姿を演じていて、南大阪の活気と大らかさ、優しさが上手に表現されていると感じます。

ヒロインは糸子さんというのですね。

その仕事ぶりは非常に楽しそうで、お客さんと会話をしながら、試行錯誤して洋服を作り上げていきます。

そして、お客さんは、さまざまな想いを持ちながら、時には文句を言いながら、おしゃれを楽しむ。

まさに、お客さんもものづくりに参加しているような感じがします。

洋裁、ファッションの世界も、私達と同じものづくり、工芸の中に入ります。

糸子の仕事ぶりをテレビで見ていて、私はふと、物作りというものの本質を考えさせられました。

工芸展というと、作為にみちた前衛的な作品ばかりが目につきます。

でも、これは誰のために作られた物でしょうか。

自己主張、自己実現、想いの発露・・・すべて自分のため、自分の気持ちや考えを表現するためでしょう。

工芸とはそんなせまっくるしいものでしょうか。

糸子のように、『誰かの笑顔』のために仕事をするのが本当の工芸の姿ではないでしょうか。

それはお客さんだけでなく、自分の家族でもいいし、恋人でも良い、近所の人でも良い。

つくったものを誰かに使ってもらって、喜びを分かち合う。

これほど、ものづくりをする人にとって、そしてそれを手にする人にとって、幸せなことはないのではありませんか。

思想がかった物のいい方をすれば、糸子のような仕事は『公』なるものであり、前衛などの自己表現を主な目的とするものは『私』を突き詰めることになります。

人間が一人で生きていけない事は明らかなことであり、一人になった人間ほど弱くもろいモノはありません。

私を突き詰め、追求する表現に健康的なモノが出来にくいのは、そこに無理があるからです。

先日、一緒に琉球藍研修に行った作家さんが、琉球藍を購入されました。

その作家さんは『この藍で主人の着物を織ってあげたい』とおっしゃいました。

その言葉を聞いただけで、この研修は成功だった、大きな価値があったと嬉しく思いました。

良い素材を手にしたとき、自分の身近な人、愛する人にまず良い物を作ってあげたいと想う。

それが工芸の、そして『ものづくりの心』の基本だと想います。

その気持ちがなければ、商売モノにしたって、良い物はできないと私は思います。

公募展に出品して入選するのも大切な事ですが、その前に、自分の愛する人、大切な人を喜ばせる事のできる物作りができなくて、どうして一人前と言えるでしょう。

また、それ以上の表現、作り手としての喜びが、この世にあるでしょうか。

糸子がお金の為にあれだけきばって仕事をしていると見るのは甚だ一面的な見方です。

そうじゃない。

糸子は、お客さんの笑顔の為に、笑顔が見たくて、仕事をしているのです。

現にこの私も同じ気持ちです。

ですから、売れない売れないと想っている作り手の人は、まず、自分の家族、ご両親やおじいちゃん、おばあちゃん、ご主人、子供達に、着せる着物をつくることです。

そこには手抜きはないはずですし、精一杯の愛情をこめてつくるでしょう。

そこが物作りの原点です。

商売人なら、自分の家族に勧めるつもりで販売に当たる。

自分の娘に恥をかかせるような着物を着せる親がいるでしょうか。

それがすなわち、『親身になる』ということなのです。

物作りをする人、そして商売人も、決して『個』にとらわれてはいけない。

社会との繋がりとして、自分の作品を考えて見る。

自分の作品が、商人の手に渡って、消費者に買われ、何十年という時を経て、使われつづける。

作品を通して、あなたという存在が社会に出て行き、それが使う人の笑顔と満足につながるのです。

『この着物を着て、お客さんはどんな優しい気持ちになってくれるかな』とか『この着物はどんなかわいいお嬢さんが、どんな場面できてくれるのかな。もしかして、お見合いとかかな』なんて想いながら、そして、そこで目に浮かぶ、お客さんの笑顔と、幸せの光景を想いましょう。

あなたが優しい気持ちで、幸せな気持ちで物作りをすれば、かならず、その作品を見た人、身につけた人も同じような想いを持つはずです。

それが、大きく社会全体にひろがる『ものづくりの心』になるのだと私は思います。
  
Posted by mozuya at 14:02Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月22日

文化の多様性と着物

私はかねてより、芸術、工芸はその土地の風土が作り出すモノだと書いてきました。

染織で言えば、琉球びんがたは沖縄の風土から、京友禅は京都の風土から生まれてきたモノです。

焼き物も土地土地によって特色があるのは風土の中で自然と育まれてきたからでしょう。

色や柄、構図の取り方、すべて、その風土が影響していると思います。

それは、作る人の美意識が風土に育てられ、手もそれになじむからでしょう。

日本は南北に長く、北海道から沖縄まで気候も地質も違います。

だから、いろんな工芸品、民芸品が生まれ、生活に彩りを加えてきたのでしょう。

風土に育てられたそれらの品物はどれが上等でどれが劣っているということは基本的に無いと私は思っています。

食文化も同じで、食材が豊富なところが、必ずしも優れた食文化を持っているかと言えば必ずしもそうではない。

地元の食材を上手に調理して、美味しく食べている所も数多くあって、ですから郷土料理というのは美味しいものが多いのです。

しかし、なにかみんなすぐに序列をつけたがります。

自分の所のが一番だという。それはそれで良いのですが、客観的にモノを見ることが出来なければ、評論をする事はできません。

たとえば、紅型が色がけばけばしいとかよく言われました。

それで、紅型の色がずいぶん薄くなり、スカスカの作品をよく見るようになりました。

こういうのは、内地の工芸展審査員のメガネにかなうように作られたのだと言われています。

では、その審査員の美意識が絶対か?と言えば全然そんな事は無いわけです。

画壇でもその時は評価されなくても、作者の死後に評価が高まるなんて事があるように、解っていないだけかも知れない。

絶対的な美というものはなくて、どんな人も、自分の狭い範疇の中の美しいと思うモノを担当しているに過ぎない。

つまり、結局は好みにしかすぎないという事です。

私も、自分の好きな着物、染織品というのはありますが、それは私の好みです。

自分が思い描いている美や、指図している作品が世界最高の美であるなどとは、全く思っていません。

でも、その範疇の美意識の中で最高のモノを追求したいと思いますし、さらに幅広く美というものを考え、とらえるようにしたいと思います。

紅型や更紗のような染め物はたいてい総柄ですが、この染織品の魅力はリズム感と力強さです。

型染めの美というのはそこにあります。

そこに強弱を付けることでさらに、躍動感が出てきます。

ですから、見ても、身につけても、元気が出てきます。

美味しそうな染織品とでも申しましょうか。

更紗はインドやジャワなどの東南アジアから渡ってきたモノが多いのですが、古い鍋島更紗や堺更紗を見ると、かの地域の味わいが色濃く残っています。

年月を経る内に、どんどん原型を失い、更紗は本来の魅力を無くしてしまいました。

これは、よく言えば日本人に親しみやすいように変えられた、ということになりますが、更紗の本来的魅力からすれば劣化したということにもなります。

本来の魅力を生かして、食べやすくするのでなければ、それは、そのものではなくなったということなのです。

なぜ、そんな事になるかといえば、多様な美意識を認める眼と心がないからだと思います。

絶対的な美とか、崇高なる頂点にある美などというものの存在を信じ、勘違いしているのです。

お料理でも、素材のよさを活かしてこそ、美味しいモノとなります。

その美意識の範疇で、例えば、紅型なら紅型の中で最高のモノというものはあっても、多くの染織品のなかで、これが最高のアイテムであるとか技法であるとか言うことは無いと私は思います。

細かく精緻な技法がよりよい魅力を作り出すとは必ずしも言えませんし、アラっぽく見えても、ものすごい作品もたくさんあります。

作家や職人さんが自らの仕事を最高のものだと思うのは、大変よいことですし、必要なことです。

しかし、私のような商人の立場では、好き嫌いはあっても、様々なかたちの美を平等な眼で、色眼鏡をかけないで見る事が必要です。

いざり機の結城紬が細かい仕事で値打ちがあるのは確かですが、それで出される魅力と、久米島紬の魅力は違いますし、違うことを目指すべきなのです。

手仕事で精巧なモノが価値があるという見方をするなら、化学染料や動力織機で作られたモノは否定されてしまいます。

大切なのは、技法や手間ではなく、作る人の心と頭にある美がいかに表現されているかであり、評価されるべきはその結果としての美のかたちなんですね。

それが、様々な形があってよいし、その形に一定あるいは、絶対のものはないと私は思います。

伝統の世界に生きる者は、自らの伝統を大切にするとともに、他者の伝統へも敬意を表さねばなりません。

自分の範疇にない美を見下したり、自らの価値観を押しつけようとするのは、まさに傲慢、厚顔無恥であり、文化人として恥ずべき行為です。

人間にもいろんな人がいて、いろんな人生観があるように、工芸品、染織品もいろいろあって面白いし、そこに美を競うから世の中が豊かになるのです。

美への提言をすることは必要ですが、自らの美意識を絶対的なものと思い込み、それ以外の美を認めようとしないのは、発展でも、成長でもなく、美の終焉をもたらすと私は思います。


  
Posted by mozuya at 23:30Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月22日

『商道 風姿花伝』第4話

【十七八より】

七つから稽古を始めるとありますから、この年代は10年たったころ、そして、変声期を経て、少し安定し出した頃という感じです。

世阿弥はこの時期が一生の分かれ目だと書いています。

そして、無心に稽古に励めと書いています。

商売の世界で言えば、10年に足らない位のキャリアの時期でしょうか。

この時期、商売のスタイルも変わってくるように思います。

まずは、慣れが出てくる。

会話も流ちょうになり、冗談も交えて、楽しい商談ができるようになるのがこの位の時期からです。

その代わり、若い頃と違って、お客様からの見られ方も変わってくる。

キャリアからして、それなりの専門知識が身についていると判断され、間違いが許されなくなります。

それとは逆に、慣れから来る慢心が出始めるのもこの時期です。

そして、商売の世界の『花』が褪せだして、傲慢さ、横着さが顔をだしはじめます。

頭の悪い人は、もっと早く傲慢・横着になります。

この時点で、商売人としての成長は止まります。

商売というのは『あきない』=『飽きない』というくらいで、同じ事をコツコツやるのがいいのです。

牛のよだれという言い方もしますね。

でも、だからといって、勉強しなくて良いということはないのです。

仕事に慣れて、それなりに売れるようになれば、多くの人は勉強しなくなります。

そして、自分が一人前の商売人であると錯覚してしまうのです。

本当に勉強が必要なのは、ある程度モノも解りだしたこの時期からなのです。

今は、着物に関する本もたくさんありますし、インターネットでも情報が得られます。

でも、そこに書いてあることは必ずしも本当ではありません。

着物が好きな消費者もそういう情報は常に接しているわけで、消費者の方はよく勉強されています。

でも、反対にプロが勉強していない。

プロが勉強しないから、呉服商が軽蔑される事になってしまいます。

30歳台は商人にとって一番充実した時期ですが、この時期に勉強してないと、あとになってアホ面をさらす事になります。

プロなんですから、圧倒的な知識が必要なんです。

商売において経験とカンというのは大切なモノですが、これほどいい加減なモノもありません。

時代が変わると対応できないのです。

知識が豊富であることと、商売が上手であることは違います。

でも、知識を持っていれば、売るにも買うにも大きな支えになります。

商売とは売るだけじゃないのです。

経験と知識が無ければ良い仕入れはできません。

また、仕入れが出来なければ、一人前の商売人とはとても言えないのです。

いまは、委託が中心の業界になっていますから、商売人が育たないのです。

10年ちかくなると、どんなモノがどんなストーリーで売れるのかが解ってきます。

そのストーリーを実証的に解明していくために知識が必要なんです。

『感じ』ではなく、具体的な指示をだせなければ、仕入れや物作りはできません。

商売人の最終到達点は、『ものづくりをする』という事なのだと思っています。

そうでなければ、モノを右から左に動かして利ざやを稼ぐ、本来無用な人達と言われてしまうのです。

あくまでも、商人はモノ以外の『ソフト』の部分を担当するのです。

また、前述の通り、売ることには才能が左右します。

努力だけでは、天才的販売員に勝てません。

基本的に、着物の販売において、男性は女性に比べて不利です。

それは異性であるために共通の話題が少ないからです。

そして、着装が出来ない。

それを何で埋めるかです。

品物をみて、品名や作者を当てられたって、モノが解ることにはなりません。

そんなものは書いてあります。

もちろん、必要なことですが、書いてない本当の事を知り、消費者に適切に伝える事が必要なのです。

そのためには、着物の雑誌や着物好きの芸能人や作家が書いた娯楽本ではなく、専門書を読み、現実に作っている人の生の話を聞く。

その次のステップとして、自己表現としての品揃えや、買い付け、製造指図が出来るようになるのです。

ですから、商売人というのはお客様に育てられるのです。

お客様から頂くヒントや情報の中から自らの商売のスタイルとうものが構築されていくのです。

この頃、10年が経とうとしたころには、特に謙虚さを持ち続けるという事が必要なのだと思います。

  
Posted by mozuya at 22:24Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月17日

着物もSOHOの時代

最近、有名な呉服屋さんや問屋さんが自社ビルを売ったとか、店を縮小したという話がよく聞こえてくる様になりました。

店舗を維持するための経費を考えると、家賃その他で、ちいさななお店でも毎月100万円位かかるだろうと想います。

お店も1人ではできませんから、店主以外に1人や2人は店番の人はいるでしょうし、貸店舗を借りてお店をだすというのは

たいへんな事です。それを稼ぎ出すのはもちろん、着物などの和装品を売った利益からということになるわけですから、

粗利で100万円としたら、利益率を50%としたら、売上は200万円取らなければならないことになります。

この50%というのは小売店の標準的な利益率だと想うのですが、これだと、問屋が利益0でも2倍掛けということになりますね。

ほぼ、そんな事は無いわけですから、3倍掛けとしたら、たとえばメーカー出し10万円の商品なら、30万の小売価格で、

問屋へ支払われるお金が15万円ということになります。問屋の利益率は販売価格に対して5÷30=17%くらいしかない

ということになりますね。

これが、店頭売りならいいのですが、催事となると、経費がかかります。

会場費、案内状、接待などの販促を入れるとかなりの金額です。

これを問屋が負担する場合が多いので、当然、価格に乗せてきます。

そうなると、さらに高くなりますね。

現実問題として、着物は店舗が一等地にあるか、一等地にあっても、催事をしないと売れないと考えられています。

でも、ほんとうはそんなことはなくて、大きな売上を期待しなければ、それなりには売れるはずなのですね。

今はかなり減りましたが、昔は店舗を持たない『かつぎ屋さん』というのが居て、問屋から品物を借りて、車でお客さんの

所を回って売る人がいたのです。地方へ行くと、『うちは京都から呉服屋さんが来てるから』と言うお客様がいらっしゃいましたが、

これが、かつぎ屋さんです。京都から九州や北海道へいくなら別ですが、近隣を回ったり、自宅の座敷で展示会をするくらいなら、

ほとんど経費はかかりませんね。でも、かつぎ屋さんが安く売っていたかと言えばそれはそうでもないのですが。

私は、ブログでも書いてきましたし、作り手さんにも話していますが、着物の仕事というのは一家の生活を担う男性の仕事としては

非常に厳しいと想います。売上が不安定ですし、需要がどんどん縮小しているうえに、デフレも加速してきています。

でも、需要はそれなりにあって底堅い部分もある。でも、供給側の価格と需要側の価格に乖離があるのです。

供給側は『この値段で売らないと生活できない』といい、需要側は『良い物は欲しいけどそこまで出せない』という。

この話が堂々巡りしています。

私は価格維持を強く唱えてきましたが、消費税増税が予想されるいま、価格を下げて、利益を上げて、『食える仕事』にすることを

優先せざるを得ないように想います。

そのためには、余分なコストがかからないようにすることです。

家賃などの固定費や、販促費などの変動費を含めて、『人』以外の部分の経費を切り詰めればその分、着物に直接関わる人に

配分が回るはずです。

つまり、SOHO(small office home office)にして、自宅を基地にして商売をすれば、掛け率も低くて済むし、利益も残ります。

着物の仕事は待っている時間も長いわけですから、高い家賃を払って、一等地のお店でぼんやりしているより、ずっと効率的なのです。

流通の合理化が叫ばれて久しい和装業界ですが、いっこうに改善しないのは、構造的に高コストで、売上が漸減しているので、

さらに拍車がかかり、価格の下方圧力が強くなると、仕入をコストをさげねばならないので値切り、不払い、粗悪品の乱売

という悪循環になるわけです。銀座の呉服屋さんからどんどん良い物が消えていくというのも、言わば当然の事なのです。

『着物は何を買うかより、どこで買うかが大事』という考えもありますが、そう思わない消費者の方も増えてきていると想います。

流通構造を変えて、消費者、生産者、商人が三方良しになるためには、既存の流通にはもう期待できないと想います。

サイドアタックをかけるしかない。

新しい流通ルートを構築するしかないと私は思っています。

すでに着物に携わっている人、そうでない人も含めて、本当に着物が好きで、良い物を適正価格で勧めたいという

人が今からすぐに出来るのがこのSOHOじゃないでしょうか。

着物の仕事は、美しい物を扱い、自分の趣味や美意識が活かせ、かつ文化に携わるとても楽しい仕事です。

でも、コストが高いからノルマも高くなり、それがいろんな問題を起こしてくるのです。

いま、前(消費者市場)に出よう、出たいというメーカーはたくさんあります。

でも、その人達が困っているのは、消費者とのパイプ作りです。

これさえできれば、あたらしい流通が構築できるのです。

その形は、無店舗セレクトショップでありましょうし、SOHOセレクトショップでしょう。

私はこれから、商品、販売ノウハウ、マーケティング手法など様々な面で、この流通の構築を支援していきたいと思っています。

ご興味をお持ちの方はご相談くださいませ。





  
Posted by mozuya at 22:46Comments(6)TrackBack(0)